PPAF – ポストメインストリーム・パフォーミング・アーツ・フェスティバル

PPAFは、舞台芸術の同時代性への「メインストリーム」の総合的・包括的・普遍的アプローチに対して、「ポストメインストリーム」を担う(時代の「前」「後」にかかわらず)アーティストたちの断片的・実験的・単独的アプローチに着目し、紹介するフェスティバルです。

PPAF2010

メゾンダールボネマ『リッキーとロニーのバラッド』

個人の幸福は技術的に実現可能というナイーヴな信念のもと、外の世界の全面的な戦争状態から自身を隔離し、幻想の世界に没入してゆくリッキーとロニーの象徴的物語を、「歌による異化効果、新たな声域の探求、概念を提示する特異な方法」を通して語るオルタナティヴな「ポップ・オペラ」(2010年1月16-17日、スパイラルホール)。

山下残『せきをしてもひとり』

「ダンスの戯曲化」の試みとして自由律俳句を導入し、その呼吸=「せき」をダンスの通奏低音とし、読解のプロセスが身体表現と等価になる作品。詩句とタイトルは漂泊の俳人、尾崎放哉によるもの(2010年2月8-9日、VACANT)。

フォースド・エンタテインメント
『視覚は死にゆく者がはじめに失うであろう感覚』『Quizoola!』

『視覚は死にゆく者がはじめに失うであろう感覚』は、世界のあらゆる事物をひとつひとつ言葉で定義しようとするかのようなスピーチ・アクトが、極限的にシンプルながらも演劇への本質論的、原理主義的アプローチとは無縁の簡素な無謀さで進行する、現代の百科全書(2010年2月10-12日、VACANT)。

『Quizoola!』は、2,000項目の質問を自由に使用し、3人の俳優が2人ずつ交代で質問者と回答者を担当、即興で繰り広げる6時間のQ&Aパフォーマンス(2010年2月13日、VACANT)。

ホテル・モダン『KAMP/収容所』

舞台上に設置されたアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の巨大な模型の中をメンバーが動き回りながら、数千体のパペットを操作し絶滅収容所の実相を「演じさせ」、その様子を小型CCDカメラで撮影しリアルタイムでスクリーンに投影する人形劇/ライブ・アニメーション(2010年2月20-21日、スパイラルホール)。

山川冬樹『黒髪譚歌』

「『髪は美しい』風になびき、水のように流れ、肉体の誘惑とは異質のエロスを醸す。『髪は愛する』かつて女たちは愛する人に髪を切って捧げ、今日では愛した人を忘れるために髪を切る。人は愛する者を亡くすと、腐らずに遺るその髪を形見として保存する。『髪は恐ろしい』乱れた髪はまるで手に負えぬ意志をもった生き物のようである。また肉体の一部でありながら、あらかじめ死んだ無機物のようでもある。その一方で、男たちは年齢とともに頭の髪を喪失することに恐怖する。 不思議なるもの『髪』・・・それは得体の知れぬものが今でも棲みつく最後の森。髪が映し出すエモーションと、そこに埋もれた記憶をテーマに、超長髪のホーメイ歌手、山川冬樹が繰り広げる、コンサート・パフォーマンス・展示・儀式が渾然一体となった特別な一夜。再演は、禿げてなければ十年後」(2010年3月28日、VACANT)

PPAF2006

フォースド・エンタテインメント『忘却のためのインストラクション』

「私は友人に物語とビデオテープを提供してほしいと頼む。物語については実話であることを求める。内容は何でもよい。私は世界で起こった出来事についての短い報告を求める。テープについては私は言う、『このために用意したものでなく、持っているものを送ってほしい。君が何を選んでも、それが正しい選択になると確信している』」。演出家ティム・エッチェルスが友人たちから無作為に集めた「物語」とビデオテープを構成し、自らの語りを通してテクストと映像の連関と亀裂、現実と虚構の関係を探る実験的ドキュメンタリー/演劇的レクチャー(2006年2月24-26日、P-HOUSE)。

PME『生殖行為によって家族は作られる』

親友が受けた恥辱とその死、互いを強姦する父・母・娘の寓話、ドイツ旅行中に不意に「ユダヤ人」に「なる」男、核時代における家族セラピー、子供を作るべきではないと説法しその根拠を列挙するコンピューターの声。前作『アンリハースド・ビューティー』での実験に続いて、「演劇に何ができるか」という問いに内容においてひとつの簡素な答えを提出し、不当なるものを直截に叙述するストレート・プレイ(2006年3月9-10日、東京キネマ倶楽部)。

チェルフィッチュ『三月の5日間』

「アメリカがイラクへの空爆を開始する直前の2003年3月15日、六本木のSuper Deluxeで僕はモントリオールから来た『Unrehearsed Beauty』という、政治フォーラムみたいな形式の演劇を、会場で売ってたビールにほどよく酩酊しながら見た。このパフォーマンスについては、取るに足らないといった意見もあったけど、僕はといえばこれまでの演劇体験の中でも五指に入ると断言できるほど衝撃を受けた。翌年の2月にチェルフィッチュが初演した『三月の5日間』を、僕は実を言うと、この日のパフォーマンス体験に着想を得て書いている。だから今回SuperDeluxeで、しかも『Unrehearsed Beauty』を上演したグループと同じフェスティヴァルに参加させてもらう形で再演できるなんて、そのうえ作品タイトルの元ネタとなってる日本のポストロックバンド、サンガツのライブも会期中に開催できるなんて、とても幸せなことだ。僕の希望は、『Unrehearsed Beauty』を見たときの僕みたいに、お客さんがこの会場のリラックスした雰囲気に身を任せて、飲んだり食べたりしながら芝居やライブを楽しんでくれること。あれから三年経つけど、イラク戦争は依然として続いている」(岡田利規、PPAF2006チラシより転載。2006年3月11-21日、スーパー・デラックス)

sim/山川冬樹/恩田晃/OPTRUM/ドラびでお/真鍋大度(DJ)
『スポンティニアス・コア:パフォーマンスを超えて』

音と音との「すきま、ずれ、ゆらぎ」をキーワードにギタリスト大島輝之の呼びかけで結成されたsim、自らの身体を医療機器などのテクノロジーを用いて音と光に還元する山川冬樹、カセットテープでフィールドレコーディングした素材を「記憶を呼び覚ます儀式」として「演奏」する恩田晃、蛍光灯の発するノイズを増幅して用いる光と音のハードコア・バンドOPTRUM、ドラムと映像を同期させその場でマスメディアそのものをリミックスするドラびでお。日本のパフォーマンス・アートの現在をショーケース的に紹介(2006年3月31日、UNIT)。

PPAF2003

川口隆夫 ソロ・デュオ ダンスパフォーマンス『Night Colours』

ダムタイプのクリエイティブメンバー/パフォーマー川口隆夫のソロ『夜色(ヨルイロ)』(2001年グランド・シアター・フローニンゲンのプロデュースにより初演)の完全版と、平井優子(ダンサー)、セバスティアン・プティとセバスティアン・ズィルク(作曲家/パフォーマー)を迎えての新作デュオ(2003年2月27-28日、六本木ヒルズインフォメーションセンター/THINK ZONE)。

金森マユ『ハート・オブ・ジャーニー』

かつて真珠採りで栄え多くの日本人潜水夫が集まった町ブルームで生まれ、アボリジニーとして育てられたルーシー・ダンは現在40歳。生みの父親が実は日本人であると知らされ、オーストラリア在住の写真家金森マユとともに、和歌山県にいるはずの父親に会うため初めての海外への旅に出る。今日のアボリジニー社会そのものの多民族性を反映する彼女が数々の「仲介人」を経て至る「個人的な和解」を描いたドキュメンタリー・サウンド・スライドショー(2003年3月6-7日、シアター・イメージフォーラム)。

PME『アンリハースド・ビューティー/他者の天才』

ダンキン・ドーナツでの労働やある米兵との対話といったパフォーマーの個人的体験の報告、いくつかのイエス・ノー・クエスチョン、断片的パフォーマンス、数曲の演奏、その他は「リハーサルなしに」上演空間全体が観客に委ねられる。「客席」中央に置かれたマイクを使って空白を埋めるも埋めないも観客次第。演劇を一種の公開フォーラムに変容させ、現代の「公共空間」のあり方を探る試み(2003年3月13-15日、スーパー・デラックス)。